2015/12/11

C.ライネッケ / オーボエ、ホルン、ピアノのためのトリオ イ短調 Op.188

  ベートーヴェンの第九交響曲が初演された1824年に北ドイツに生まれたカール・ライネッケ。メンデルスゾーンとシューマンの弟子で、ライネッケは彼らの約10歳年下。師匠の世代にはショパン、リスト、ヴァーグナー、ヴェルディなど錚々たるロマン派の大家が顔を揃え、同世代にブルックナー、さらに約10歳下にブラームスという時代に生きた人物です。

 作曲家としてその顔ぶれの中で、こと日本において、彼らほどの名声をライネッケが残しているとは言えません。フルートを学ぶ人なら、ライネッケのフルート協奏曲とフルートソナタ「ウンディーネ」は重要なレパートリーとしてご存知でしょう。他にはいくつかの室内楽曲が近年光を浴びつつあるくらい。しかし実は出版されているだけで約300曲、未出版を数えると1000曲以上となる、様々な分野にての膨大な曲を書いています。7歳には作曲を始め、13歳で作品1を出版し、亡くなる前年の84歳まで曲を生みだしています。オリジナル楽曲の他にも協奏曲のカデンツァ(モーツアルトのピアノ協奏曲の全て、ベートーヴェンの協奏曲が主とされ、特に現在よく実用されるモーツアルトの「フルートとハープのための協奏曲」のためのカデンツァを含めて、それらはライネッケの名前よりも有名になっていると言えます)、交響曲、ピアノ曲、協奏曲、歌曲、オペラなどジャンルは多岐に及び、さらに彼はピアニスト、教育者、指揮者としても長期間に渡り大変精力的に活動しました。

 ピアニストとしては10代で既に著名の域となり、デンマークの宮廷ピアニストを経て各地での大規模な演奏旅行(国王の奨学金による)、リストやクララ・シューマンと共催の演奏会も多数という第一流の演奏家。シューマンから作品72「4つのフーガ」を献呈され、リストからは二人の娘のピアノの指導を委ねられました。特にモーツアルトの名手として知られ、優美でリリカルなタッチ、歌うようなレガートがリストを感嘆させていたとの事。

 教育者としては、27歳からケルンの音楽院で作曲とピアノの教授を兼任してのち36歳でライプツィヒ音楽院の教授に就任します。院長を務めた最後の5年間を含めて実に40年以上をも、師であるメンデルスゾーンが開いたこの音楽院で教鞭をふるった事になります。教育の標準を確立するために、彼はバッハから同時代に至る数多のピアノ作品の校訂やトランスクリプション、さらに著名な管弦楽曲等のピアノ編曲を一手に引き受け、更に著作、子供や学生を対象とする教育作品も数多く。これらが模範的教材としてドイツで広く使用され、ドイツの音楽界の育成に多大な影響を与えた(現在も与え続けている)という教育界の重鎮です。彼の生徒にはグリーグ、ブルッフ、ヤナーチェク、ディーリアス、アルベニス、ワインガルトナーなどがおり、シベリウスも孫弟子です。穏健、誠実で慕われる人柄だったようで、また作品数や手がけた膨大な仕事と種類からも恐るべき勤勉さがうかがえます。

 指揮者としての経歴も素晴らしいものです。30歳からオーケストラ指揮者を務めるようになりバルメン、ブレスラウを経て36歳でゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任してからは35年に亘って当オーケストラを統率し、屈指の力量を定着させました(音楽院の教授業や作曲とも勿論、同時進行です)。ブラームスの「ドイツ・レクイエム」全曲初演をはじめ、後輩たちの作品をも多数取り上げています。

 さて、ここまでそんなライネッケの業績をご紹介してきました。どれも超一流であったことは分かります、それらの全てを質の高い仕事内容で両立させた超人的な存在自体が驚きなのですが、調べるほどに そんな彼の名前が没後100年を経た現在、一般にあまり知られていないことに更なる驚きを覚えずにいられません。

 理由として、活動領域の量と範囲と質が大きすぎるために、まず いったい彼が何者であったのか全体像をひとくちで語れず、ジャンルで突出しないため埋没しがちであること。また、作曲家として、前述の通り10年前後の世代にあれだけの個性的な面々が立ち並ぶ中で、系譜的にはシューマンとブラームスを繋ぐロマン派の中枢でありながら、立場上 古典にも新風にも精通しつつ、同時代のあらゆる作曲技法を自在に操れたゆえに包摂してしまい、オリジナリティの欠如という危険を孕みました。決して模倣ではないのに、個性の強烈なシューマンやメンデルスゾーン、ブラームス『の影響』といった比喩・印象が付き纏ってしまう評価を安易に下されがちです。また教育作品でも有名であるがために、その方面が得意ととられて、演奏家からの無関心やプログラム編成上の敬遠を招くケース。そして、推論として度々聞かれるのが、いわゆる超絶技巧など派手に目を引く箇所が少なく、作風は堅実で保守的(メンデルスゾーンから引き継いだ音楽院の方針でもあります)とされ、要するに「どちらかと言うとパッとしない」「傾向的に地味だろう」という印象。こうして没後は多くの作品が埋もれていったとみられます。

 ですが、今回ここで取り上げる三重奏でお聴き頂けます通り、「パッとしない」そんな印象はおそらくお持ちいただけないはずです。堅実で保守的?確かに、書式は破綻ない堅実さですし、無理のある音域が基本的に排されて管楽器にはシューマン作品などよりはるかに息継ぎに配慮もあると同時に、確かに超絶技巧をひけらかす、とまでの派手派手しい場面は無さそうです。だからと言って易しいかと言うと飛んでもありません。それらの配慮がある上で、それぞれの楽器の特性やプレーヤーの個性、フレージングと表現についての考えと実現力を絶妙なラインで深く問う、譜面上はシンプルに見えて奏者を育てる目的が随所に仕込まれているようで唸らされる(さすが教育のプロとも思わされながら取り組んでいます)ものにもなっています。金管楽器代表、木管楽器代表、そして鍵盤の王様ピアノフォルテ。誰も脇役でもなく独立した音色と個性の三つ巴のような扱いです。この3つの楽器のチョイスと、それらに受け持たされたのが、1.300曲の中で何故こういう役目、立ち回りなのか?それもまたライネッケという人物と考え方について興味深く思わされます。

 そして技術的な事とは別に、音楽的に「パッとしない」かどうか。これも飛んでもない話で、とても人間的、有機的で魅力的な音楽が詰まっていると思います。ドイツの音楽教育界の権化でガチガチかと思いきや、こんな柔軟な引き出しも持っているのかという、驚くほど楽しげであったり、優しさに満ちていたり、ドラマティックだったり。さながら映画音楽のような楽章もあります。季節でイメージするとしたら、1楽章は秋。2楽章は初夏。3楽章は春、それも桜の頃。4楽章は…春でも夏でもスキーでもいい、とにかく行楽日和、というところでしょうか。

 この曲は作品番号188番、42歳の頃なのでライプツィヒで教授職と指揮者就任から7年目の時期のものです。今回のトリオも、40歳前後のメンバー3人での組み合わせとなり、奇しくも作曲家の人生のタイミングに近いようです。作品評として「苦み走った大人の音楽」との声もあるこの曲、(この印象は楽章が限定されると思いますが…)そろそろ人生も演奏も色々な経験を積みつつある3人、どのような人間模様をお見せできるでしょうか。

2015/12/07

C.C.サン=サーンス / 七重奏曲 変ホ長調 Op.65

日本では明治帝の皇太子(大正天皇)のご誕生に沸き、滝廉太郎が生まれた明治12年(1879年)、サン=サーンス44歳の時にこの作品は作曲されました。
その楽器編成は当時でも今でも、とても珍しくピアノと弦楽五重奏にトランペットを加えた編成です。
全4楽章で20分弱程度の作品ですが、シンプルで古風なバロック的構成の中にもフランス風な洒落たメロディーにあふれています。
 1867年にE・ルモワーヌが設立した室内楽協会「ラ・トロンペット」のために書かれ彼に献呈されています。

第1楽章 序曲(Preambule) アレグロ・モデラート 変ホ長調 4分の4拍子
 堂々とした序奏に始まりアレグロの主部につながります。展開部では3楽章の主題も聞かれ短いながらも先の展開を予測させる楽章です。終結部では華やかな変ホ長調の分散和音も聞きどころです。

第2楽章 メヌエット(Menuet) モデラート 変ホ長調 4分の3拍子  
 古典的スタイルの典型的なメヌエットです。中間部はユニゾンで奏でられる、いかにもサン=サーンスらしい美しい旋律が印象的な楽章です。 どこか動物の謝肉祭を想わせるメロディーです。

第3楽章 間奏曲(Intermede) アンダンテ ハ短調 4分の4拍子  
 全曲の中で唯一の短調の楽章です。
 1楽章で提示された主題が展開されていきます。美しくも悲しき旋律を惜しみ後ろ髪を引くかのような第2主題が印象的です。

第4楽章
 ガヴォットとフィナーレ(Gavotte et final) アレグロ・ノン・トロッポ 変ホ長調 2分の2拍子  
 前半は、ピアノと弦楽器による軽快なガボット(古典舞曲)が続きます。 中間部からトランペットが印象的な信号ラッパの音を鳴らしながら盛り上がっていきます。  
 曲は速度を上げながら盛り上がっていき一気に終わります。

ちなみにサン=サーンスの名曲、ヴァイオリン協奏曲第3番は翌1880年の作曲です。(Trp. S)

2015/12/05

山形明朗(ピアノ)

山形明朗 Akira Yamagata

東京藝術大学大学院音楽研究科器楽専攻(ピアノ)修了。

在学中より石川ミュージックアカデミー、Kors Muzyczny in Bialystokに参加(ディプロマ取得)、また、静岡音楽館AOI主催2006年度ピアノ伴奏法講座にて野平一郎氏に師事するなどの研鑚を積む。

第12回宝塚ベガ音楽コンクールピアノ部門第一位、同時に特別賞受賞。

これまでにソリストとして、モーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ラフマニノフなどのピアノ協奏曲を各地のオーケストラと共演。2013年3月にはルーマニア国立コンスタンツァ歌劇場オーケストラに招聘され、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番を共演しヨーロッパデビューを果たした。

アンサンブル・ピアニストとしても、「JTが育てるアンサンブルシリーズ」、「東京藝術大学シューマン・プロジェクト」などに出演、主に声楽家・弦楽器奏者のパートナーとして、国内外で活発な演奏活動を繰り広げている。また、バリトン歌手としてはルネサンスから古典派までを中心に、宗教曲のソロを含めたアンサンブル活動を続けている。モーツァルトアカデミートウキョウ、仙台コレギウムムジクム、各メンバー。

新潟県上越市出身。

2015/12/03

J.M.ウェーバー / 七重奏曲『我が生涯より』ホ長調

まず「我が生涯より」という曲を思い浮かべると、まず出てくるのは“ベドジフ・スメタナ”の弦楽四重奏曲という方が大半かと思われます。 ですが今回演奏しますのは、“ヨゼフ・ミロスラフ・ウェーバー (以下、J.M.ウェーバー) ”が作曲した弦楽器と管楽器混合の七重奏曲です。
そこでさらに思うこと、それは「ウェーバーって、あの魔弾の射手で有名なウェーバーさん…でもないの!?」ということではないでしょうか?
そうなのです、ウェーバーはウェーバーでもこのJ.M.ウェーバーは、1854年から1906年に生きたチェコのヴァイオリニストで、この「我が生涯より」以外には弦楽四重奏曲とヴァイオリン協奏曲を作曲している、ということ以外に全く情報がない、いわゆる「超マイナー作曲家」に分類されるのでは…?というくらいの隠れた作曲家であります。

そんなJ.M.ウェーバーが作曲した「我が生涯より」は、チェコらしい曲調にボヘミアの風を感じるような、以下の表題付きの四つの楽章から構成されています。

チェロのアルペジオとホルンのメロディが川の流れを彷彿とさせる、ゆったりとした曲調の第一楽章、“モルダウの岸辺から、青春の夢(おだやかなテンポで) ” 
ヴァイオリンの快活なメロディがこれからの人生への明るい希望を抱かせる第二楽章、“学生時代;人生の理想(スケルツォ) ” クラリネットからファゴットへ続くのもの哀しげな動機、そして最愛の人を失った悲痛をヴァイオリンが歌い上げ、「いつまでも悲しんではいられない、いや、でも愛するお前がいなくて僕は絶望しているのだよ…しかし、前を向いて歩かなくては!」という心の葛藤を表すような第三楽章“愛する人の墓で(アダージョ・マ・ノン・トロッポ) ”
社会の荒波で戦っているかのようなビオラの勇ましいメロディ、一旦その状況から落ち着くかのように奏でられるコラール、そんな希望を打ち砕くかのようにまた冒頭のメロディが出てきて、そして思考が止まり、昔のことを思い出すかのように第一楽章の旋律が蘇り、その人生が終わるかのように静かに収束していく第四楽章“生存競争の中で;欺かれた希望;青春時代の思い出(フィナーレ) ” 

今回この曲を演奏いたしますメンバーは、全員が1980年代生まれという当団でも比較的?若手のメンバーで構成されています。 これから待ち受ける人生がどうなっていくかは全くわからないし、まだ自分の人生を語れるほど大人にはなりきれていない…しかし、自分たちの「今」、そしてそれぞれの抱く「未来」への思いを存分に表現して演奏いたします。 残念ながらあまり日の目を浴びられていない曲ではありますが(何故この編成にホルンが2本なのか、というのも疑問ではありますが)、往年の名曲に負けないくらいの素敵なメロディ溢れる曲ですので、最後まで楽しんでお聴きいただければ幸いです。